歴史

670年には御薬師様の霊験が知られていた

本堂正面に掛かっている「日本三薬師如来」の額

寺伝によると白鳳九年(670年)人皇第四十代天武天皇が皇后御病気平癒(へいゆ)を当寺に祈願され、その霊験のほどを喜ばれ七堂伽藍(がらん)を御建立になり、勅願寺として永く皇室の御栄えと天下泰平の御祈祷を執り行わせられました。盛時には三十六坊を有したと伝えられます。境内から奈良・平安期の瓦が出土し、古代まで寺歴がさかのぼることが知られています。なかでも、「柳坂山、戊寅」銘の軒平瓦は14世紀前半と推定されます。また備前水上山万寿寺・三潴の夜明山朝日寺等を開山された神子栄尊禅師を育てられた厳琳(げんりん)和尚(後、高良山座主二十五世)も当時の住職でした。
 降って白河天皇は、ことのほか尊崇され勅願数回に及びました。当寺の本坊を禅定坊と称し「出雲の一畑」「伊予の山田」と共に日本三大薬師といわれ、鎮西一の巨刹としてその威容を誇りました。
 江戸期には、第七代藩主頼貴公の息女品姫(奥州二本松の城主丹羽加賀守様御奥)、栄姫(豊後臼杵の城主稲葉伊予守様御奥)及び御内室三君によって厨子を寄進され深く帰依されました。


南北朝時代には戦場になっていた

全盛の頃には、高良山の座主家よりこの別当を継ぎ、宝塔や末寺が軒を並べ、高良山と東西相対する大きなお寺として繁昌しましたが、その後兵火などによる荒廃や再興を繰り返しています。
南北朝の争乱が始まり、延元三年(1338年)懐良親王が征西将軍として九州にお出でになりました。当寺にも懐良親王供養塔があります。筑後川の戦いや、高良山の合戦があり南軍の拠点耳納連山乃ち、高良山より柳坂谷山城、水縄石垣の新田城その他、激戦が繰り返され、従って柳坂谷山城防衛の第一線である永勝寺や末寺、その附随の建物は戦渦に巻き込まれ悉く焼失したそうです。
 世は足利氏の治政となり、室町時代の文化は勃然として起こり、神社仏閣の復興は目醒ましいものがありました。永勝寺も又、その気運に恵まれ稍々復興した模様です。
 然るに戦国時代には、天正の始め、キリスト教徒大友宗麟が当山に攻め来たれり、放火され七堂伽藍をはじめ全ての建物は残りなく焼失し、忽ち荒丘となりました。幸いにも本尊脇士は難を逃れ給うたそうです。