柳坂山むかし物語
筑後國山本郡柳坂村、柳坂山永勝寺薬師瑠璃光如来と申し奉るは、
当時本土の守護佛にして脇士は日光遍照、月光遍照、十二薬刄神将なり
近代は方三間の草庵なりしか、西南に峨々(かが)(高くて険しい)たる
高嶺峠へ、喬木、脩竹、欝蒼として囲綺(いじょう)するが故に其腐り易うして
保ち難さを愁え、村民古庵主本行坊と謀り、各資財木竹を寄せ、他の施信をも乞ふ。
今年壬寅(みずのえとら)(天保13年(1842)二月廿三日釿始(きんし)し、
わつか三旬余りにして、瓦葺なれり。抑、
本尊の来由を尋奉るに、いにしえは、勅願寺にして鎮西無双の大梵
刹(だいぼんさつ)(大寺院)なりしか、中古たびたび兵燹(へいせん)に羅り、
霊賓、古記等悉く焼散しで、遺物有事なし、たまたま寺社開基帳に其事蹟を載すと
雖とも、惣で無稽の説にして、信ずるにたらず、野老、伏て舊記(きゅうき)の所載、
古老の伝う所を案ずるに、大古は東谷の嶺に東面に立せ給ひ、
日本三所の霊場なりしといえり。
爰(ここ)に人皇四十代天武天皇の御宇白鳳九年庚辰(かのえたつ)(680)皇后御心地
例ならずおわしまし、祈薬更に験なかりしに、當山医王尊に御祈願ありしかば、
御脳惣ちおこたらせ玉い、叡感斜めならず、是より永く、勅願所として、
賓作万歳、天下安寧の御祈祷を修し奉り、兼ねて又、
閏月毎に星祭供養を執行し、王法の外護たるべきよし、詔を下され若干の荘園を賜り、
七堂伽藍を御建立、七賓荘厳光りを輝かし、見物聞法の道場とぞなれりけり、
別當禅定坊と號(号)し、天台止観の秋月常に清く、
圓頓融通の法灯、長に明かなり、三十六坊の子院、玉甍を並べ、
百千の末山、九国に充(みち)て、無双の法地となり、公武の御崇仰浅からず、
中にも七十二代御白河天皇は殊(こと)尊み敬まわせ玉ひ臨時の勅願数回にして、
法幢繁栄、年を逐(おう)て新也。當山の隆盛、實に此時なりきとぞ。
盈(みち)れば虧(かげ)ることわりにや、大友義鎮公、武威にほこり、驕慢(きょうまん)に餘り、
邪道に帰し、佛神を蔑(ないがしろ)し、霊賓、荘園を奪ひとらんと、貪欲(どんよく)におぼれ、
天正の初、當山に発向し、士卒に命じて濫(乱)暴狼籍、放火せられけぱ、
魔風四方に覆ひ、金銀、珠玉をちりはめし、不退轉の七堂をはじめ
所々の堂宇残なく一時の灰燼となり、餘多の大衆、或は命を損し、
或は逃去り、一山忽(たちまち)荒丘となれり、されど本尊脇士は恙(つつが)なく(無事)、
火炎をしのぎてださせ玉うぞ不思議なり。時に證明坊と言浄行持律の老僧と、
古賀又左衛門と言有信の山士残り居て、やがて仮殿をしつらい、
尊容を遷し奉り、再び大伽藍造の志願を発し頻(しき)りに、奏聞に及びければ、
諸卿、朝議を遂(とげ)られしかと、世の乱れ大方ならぬ折なれば、
群議決がたく、徒に震襟(天子の心)を悩れるのみなりき。同十四年丙戌(ひのえいぬ)(1586)、
今年閏月あれば星祭供養を執行せんと議す。されど僧侶すくなきが故に、
高良山明静院を始め、山中の衆徒を請し、十一月十ニ日酉の刻(ごご6じ)より
寅の刻(ごせん4じ)まで修法を遂ぐ。翌十五年丁亥(ひのとい)(1587)、
小早川秀包(ひでかね)(毛利)公、久留米に入城せらる。公の夫人長千代殿は、
大友義鎮入道宗麟公の末女なれば、舅(しゅうとめ)の所行に効(なら)い邪宗に帰し、
是も又當山を放火せられければ、一山再び焦土となり、證明坊も行方しれず、
法灯忽絶えて狐狸(きつね)の栖(すみ)かと変せしは、黔羸(けんるい)のしからしむる所にして、
仏も力およばせ玉はざりしにや。尊容は難を遁(のが)れて遥(はる)の閑地にわたらせ玉いけるを、
村民等懐きまいらせ、領主の気色を恐れ、ひそかにかな山という幽谷の古鉄壙(つか)に、隠し置奉りぬ。
慶長五年庚子(かのうね)(1600)田中吉政公御入国其頃彼山癩(てん)に、
よなよな赫々たる光明輝きけり。此事終(つい)に官聴にも聞へ、郡代石崎若挟主の下吏中村新右衛門、
石井半兵衛、此両人をして見せしめられしに、件(くだん)の霊像厳然(げんぜん)として
壙中にましませど、歩み運ぶ人もなく、香花を供する者もなく、
浅ましなど言うも愚かなり、里人等今は憚る所なく、こしかたの事ともをつはらに語りつつ、
堂舎、僧坊再興の公裁を願いしかば、両士も驚き、すずろに袂(たもと)をうるおし、
其由官府に復命す、されどまた擾乱(しょうらん)の世を去る事遠からず、
殊更入部の砌(みぎり)なれば、理世安民の計策にいとまあらず、
造営の沙汰もなかりし故、村民等力およばず、旧址に仮殿をしつらい、尊容を遷座なし奉り、
供田二十畝を寄せて、高良山の僧侶招き、かたちばかりの祭礼を執行しぬ、
元和六年庚申(かのえさる)(1620)、我君御入郡ましまし、
政化一時に郡村に及び、旧染を一洗し、諸民恩澤に浴し、
おのおの其業を楽むといへとも、時節や至らざりけん。
慶安元年戊子(つちのえね)(1648)、仮殿破壊して祭礼の式も廃れつつ空しく二十三年の
星霜を経たり。爰(ここ)に地頭有馬太夫の代官片野清右衛門尉良次、
當郡宰上野太兵衛尉重種、共に古跡の頽廃を歎き、頻(しきり)に再興の大願を起し、
経営の思慮を凝し村民等と謀り、供田米二丁余、年中子母の羸(るい)餘を基本とし、
四隣檀越に至、老若男女の施信を乞うて、終に木匠瓦工の巧を遂げ、
寛文十年庚戌(かのえいぬ)(1670)三月十六日、方三間の瓦堂成れり。
即、今槙の良材を以てする所の瑠璃殿是なり。此時尊像をも潤色し、
玉殿に遷し奉り、十一月十二日當村の仏説盲僧新柳院舜海、香花などを、
供して祭禮の式をなせしに、ほどもなく瓦しばしば脱落す、
依て仮に草葺(くさぶき)となしつとぞ、いつの頃よりか、千光寺の僧徒を雇いて、
祭礼の誦経をなせり。其座元権與(ごんよ)は元禄元年戊辰(つちのえたつ)(1688)、
當郡宰上野太兵衛門尉正重が発起する所なり。故に同姓三家は各一家にて是を勤め、
其他は貧富をわかたず、皆両人にて勤める旧例也。祭式に、小豆飯二十五菜を献備す。
此小豆飯は、いにしえより茶釜を用いて炊き、
徹するの後、緇素(出家と在家の併称)ともに是を食せず食すれば
即死すと言い伝えて土中に埋み来りしに、亨保中(1716~36)誤りて捨たりしに、
山鳥飛来り、是をついばみ、其所を去りあえず忽ち斃(たお)れたり、
折節(おりふし)、群衆の貴賤是を見て皆人肝を消し、古今尊像の威霊、
新らたになるを感じ旧例に復し土中に埋む後世其所に石瑞籠(せきずいごもり)を(粥捨場)立て證とす。
此小豆飯、茶釜を用いて炊き、徹(とおる)後人畜共に食するを禁ずる事、
其始深き故有べし。此小豆飯を炊くに、玉殿より東南の方、
四丁余の山腹なる清泉を汲み用ゆ、地名をしみずと称し、霖雨(りんう)、旱天(かんてん)
といえども不増不減して、玄冬には湯煙を発し温かに、盛夏には雪氷のごとく、
一掬(きく)(すくう)にして忽ち炎暑を忘れ、頓(しきり)に嚔(くしゃみ)を催し、
面を背(そむ)けつへし。其味至淡甘例にして無二の清泉なり又地名をしおい場とも称し
むかしより村民等、除疫、請雨などの為に此霊水を汲み、坂本の菌桂の大樹をめぐり、
尊前に度参して平安を祈願せし故木根の堆所をめぐりとうと唱へ来りしに、
文化四年丁卯(にのとう)(1807)、地蔵の石佛六躯を建立せしよりして
其通路廃せり其後彼菌桂、喬木となりければ、
伐除けん事を窺(うかが)ひ奉りし事数回なりしに、毎度に御ゆるされなれば、
風雨の為に倒れ伏し、終(つい)には腐朽(ふきゅう)に及べりかくまでおしませ玉えるは、
むかし七堂伽藍の一跡なるか、又経石等納し所なるか、深き因縁有るべし。
斯(し)る霊跡を失せん事尤(もっとも)本意なればおのれ包淑(ほうしゅく)、
槐(かい)一株を栽目標とし、後栄えを待つ。中古まては、村民等家内清三・七月の月祭等、
必ず此霊泉のみ汲み用い、清潔祈らしめしか、今は古風を存する人、稀なるべし。
つらつらおもうに、むかし塔子院等、地をあらそひて遠近に立連なりつと覚ぼしくて、
今那方這分を見ありくに、峯を越え渓を隔て、
玉殿より高き土中にも、古瓦累々として甚多し、製作の時代によるにや、
其形容数品ありて、恰(あたか)も筑前国都府楼の遺跡、戒檀院等の古瓦にひとしく精緻堅潤、
至に絶佳なるものあり。その中には、柳坂山、又は永勝寺、又は暦號など、其余の文字を彫たるも有り。
好古家、侭拾ひ得て珍蔵す。不動堂、仁工堂、仁王門、鐘つき、坊地、油田、
門口、乕(虎)薬師、僧都町、旗張等いうも似つかわしきとなえにて、
都て田甫等の字に残れり就中正福寺はむかし繁栄の時の刹なりし由なるか、
退転に及び、今は民居の南谷流の東、木山の内に燈塔などの敷石残れり、
是其旧跡なりとぞ本尊の民居の西、山腰に一小宇を営みて
観音大士を安置し奉る御長弐尺余の霊験殊勝の尊容なり後世潤色し奉るに、
佛工讃美して、是いにしへ権者の彫刻なるべし。一躯の相貌奇々妙々、
まのあたり示現まします心持して、頗(すこぶ)る不檀金の霊佛なりといへり。
小寺巷あり。十余家ありて、是跡分明ならず。遥渓上に庵所ろと称し、
山懐幽閑(やまふところゆうかん)の地あり。是其旧跡なる歎。中畠地となり、
今は荒廃して雑木繁茂せり。又尼寺の古跡とて、同巷に有り。
小寺の称も爰(ここ)に出る歎。本坊を去る事は、九丁にして、林間清潔の地なり。
寺號、山号の傅もなく、比丘尼屋敷と字して畑地となれり。又此地を
戸板屋々敷、戸板屋藪(やぶ)などいひ傅へ、古書に見えたり府下の別當(当)
戸板屋次右衛門が祖、住居のよしにて、古墳数多く有り。阿弥陀堂の本尊は、
熊蔵と言民家に傅(伝)わり堂趾に山石を立て遺趾を存し正面に梵字あり、
側(かたわら)に享禄(1529)二年八月と鐫(せん)す。其めぐりは田地となりて、
阿弥陀堂と字せり。また賓塔の趾は、古官道の南通りに堆高して大石を残し、
畑地と成て塔の本といえり。天神の社趾も、其南隣に塚のごとくにして
大石八、九を畳み、古梅数株はびこれり。